蜘蛛の糸異聞―カンダタ地獄行―
「くそったれが」
男は、地獄の天井から垂れ下がる蜘蛛の糸を上りながら、歯を砕かんばかりに噛みしめた。ぎりぎりと歯の根がきしんで、顔が憤怒のシワで歪む。
男が上ってきた蜘蛛の糸の先には、慈愛の笑みを浮かべた釈迦尊が、じっと彼を見つめていた。か細い蜘蛛の糸にすがりつき、必死にのぼる様を、童を思わせる純粋で残酷な瞳で凝視していた。
これから起きようとしている何か。
それを純粋に望んでいるのだ。
渇望しているのだ。
男は糸をのぼるのをやめて、幾度も下を見て上を見た。
下からは、大量の地獄の亡者が積み重なり、山となって男の後を追ってくる。それは、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出したくなるぐらいの、数だった。
糸がなくても、その高さだけで天井に届くのでは、と思うほどだ。
幾千、幾億の亡者の怨唆の声が空気を震わせ、山から崩れ落ちる亡者の哮りの声が、魂を怯えさせる。
男はその光景をみて、糸の先にいる釈迦尊がいったい何を望んでこんなことをしてるのかを理解した。このまま糸を伝って天井に上がれば、亡者は自分の後を追って天井にたどり着き、現世にあふれかえることになってしまう。
「やっぱりそういうことだったのかよ! 釈迦よぉっ! てめぇ、なに考えてやがる!」
そして、腹の底から叫んだ。
届くかどうかなんて関係ない。喉が裂け、血を吐くほどの声で訴えた。
亡者の苦しみが音の壁となって、音の声が釈迦に届くのを許さない。それでも、関係なかった。叫ばずにいられなかった。
それは、いくら彼でも――否、これまで地獄をみてきた彼だからこそ、許されないことだった。
「カンダタよ」
天上から地獄へ、釈迦の声が響いた。
その瞬間、地獄が静寂に支配された。
亡者の轟きも、すべて止んだ。
地獄が、釈迦の声を聞き逃すまいとしているかのようだ。
「カンダタよ、お前は気にせず糸をのぼるのだ」
「は?」
男、すなわちカンダタは言葉を忘れる。
――こいつは、この男は何を言っている。気にせず上がれ、と。そう言ったのか?
――自分が地獄から現世に戻ることで、なにがおきるのか分かっていてそんなことを言ったのか?
――現世に、亡者があふれかえることになるんだぞ?
「仁を捨て、義を見失い、礼を学ばず、智を持たず、忠を嘲り、信を忘れ、考を止め、悌を貶めてきたお前が、何を戸惑う。何を悩む。お前はただ、自分の欲望のまま、為したいことを為すのだ。それが私の望みでもあるのだから」
「てめぇっ!! それでも仏かよ!! こいつらが現世に戻ったらどうな」「わかっている、わかっているとも、カンダタ。お前が分かっていることが、私に分からぬわけがない。だが、それでも気にする必要はないのだよ、カンダタ。上がれ、現世に戻り、為すのがお前の宿命だ」
カンダタは絶句した。
それが仏の為すことか。
ぞわ……と、全身の毛が逆立った。
怒りで目の前が血の色に染まっていく。
「釈迦……俺は、てめぇの言いなりにはならねぇ」
うつむきながら、呟く。食いしばった歯から、血がにじむ。
「よくきけ釈迦ぁっ! 俺はてめぇの言うとおりにはしねぇ! 俺は天に唾はく男だ!」
「カンダタ……貴様……貴様ぁっ!」
釈迦の怒号が響いた。カンダタがやろうとしていたことを、はっきり理解したのだ。
「だから俺はこうする」
いつの間にか、這い上がってきた亡者が、自分の足をつかんだとき、思いっきり蹴落とした。
瞬間、蜘蛛の糸が切れ、カンダタは落ちていく。地獄へともどっていく。
「カンダタ、貴様ぁ!」
「そうさ! 釈迦! 俺はてめぇの言いなりにだけは絶対ならねぇ!」
カンダタが落ちていく。姿も亡者の中に隠れ、見えない。
ただ、声だけが釈迦の耳に届いた。
「覚えておけ釈迦! 地獄からもどってきて、必ず貴様を殺してやる! もう一度言う、覚えておけ!」
釈迦は、すっと立ち上がり、蓮の池に手をかざす。
見えていた地獄が、すっと消えて、池の水面になる。
「くくくっ……カンダタめ……私の恩を踏みにじりおって……」